信仰がなくては、悪意に勝つことは出来ない

アイドルと音楽と演劇が好きな人の闇鍋ブログ

映画「ギヴン」と私

以下作品のネタバレを含みます。
これから作品をご覧になる予定の方は閲覧しないことをお勧めします。

 

劇場版ギヴンを公開初日に見た。
映画の公開日を制作決定のタイミングからずっと忘れることなく、こんな風に待ち遠しく思ったのは久しぶりだった。それがアニメ作品であるなんて経験は、初めてだった。
少しチケット戦争に出遅れた結果、取れたのは映画館の最前列。愚行だなぁと思ったが実際愚行だった。これを書いている今も首と肩周りがばっきばきである。でも見に行ってよかった。純粋にそう思っている。他の人から先に作品の感想を聞きたくなかった。別にTLでここまでギヴンという作品に熱を上げている人も居ないのだけれど。


本編が終わった時、死にたいと思った。
梶秋彦という男に心底失望した。でもそんな彼を見て私は不器用で誰かを傷つけないと自分を取り戻せない彼が彼らしいと思った。そして自分はそんな彼が好きだった。だから、死にたいと思った。

秋彦さんが春樹さんを無理矢理押し倒したとき、あの人は俺のことが好きなんだろと言った。春樹さんが秋彦さんを思って伸ばしていた髪を、秋彦さんを思っていた年月の証であるその綺麗な髪を手に取って彼は、こんな長い髪で女を抱けるのかなんて言葉を吐いた。(台詞はニュアンスだと思ってください)

信じられなかった。涙が止まらなかった。言葉だけを見ていると最低なんだけれど、声が、表情が、だれよりも彼が傷ついているのだということを私に嫌というくらい教えていた。吐きそうだった。死にたいと思った。早くこの時間が終わってくれと心の底から願った。耐えきれなくて、足をばたばたさせていた記憶がある。割と暴れながら見ていたから最前列でよかったのかもしれない。
江口拓也さんの芝居が上手いことを、ギヴン制作チームが細かく表情を描き込んでくれたことを、心底恨んだ。

覚えるくらい予告を見ていた。だからこの流れで春樹さんが口にする台詞を私はなんとなく知っていた。来るなと思った。この流れでそれを言うなと思った。その台詞が聞こえたところからの記憶があまりない。泣いていた。その前からずっと泣いていたのだけれど、また私は泣いていた。心がぐちゃぐちゃだった。その台詞に対しての秋彦さんの返答を聞いたとき、横っ面を張り倒されたような気がした。その言葉に春樹さんが怒ってくれたことだけが、唯一の救いだった。

梶秋彦という男が好きだった。だからこそそれ以上に梶秋彦に思いを寄せる中山春樹という男が好きだった。途中から秋彦さんのあまりのクズっぷりに丸く収まれなんて思えなくて、でも春樹さんの健気な思いだけは叶って欲しかった。髪を切ったから終わりなんてそんな簡単に済ませられるものではないでしょと勝手に思っていた。

結論から言えば丸く収まったのだけど、私という人間は同量の幸せと絶望を与えられると絶望しか感じ取れない人間で、告白シーンもちっともめでたいなんて思えなかった。でも嬉しかった。春樹さんが幸せそうな顔をしていたから。ただただ泣いていた。心がぐしゃぐしゃで泣くことしかできなかった。最早なんで泣いていたんだろう。

絶望ばかりを好んで摂取しているタイプの人間なので、映画ギヴンという作品もやはり好きだったし素晴らしいと思った。けれどそれ以上に梶秋彦という男への嫌悪感と好意で私の頭はめちゃくちゃだった。帰り道もずっと泣いていた。怪しい人だっただろうな。

人間としての解像度がとてもじゃないけどアニメ作品ではない。こんなの劇物にも程がある。しかも役者に投影していないという点においてアニメは大変タチが悪い。私が目にしていた梶秋彦は、キヅナツキ先生ひとりが、江口拓也さんひとりが、作り上げたものではなくて、アニメギヴンに関わった人達全てが作り出した虚像である。
私が普段見ている舞台は、目で見えているのはあくまで見知った役者のため頭が作り話だと理解できるのだが、アニメはその感覚が薄い。何度も梶秋彦というひとりの男なんて書き方をしたけれど、彼は虚像であるということが頭からスコンと抜け落ちる瞬間がある。途端彼が1人の人間に見えてくる。あの世界を生きる、自我を持ったひとりの人間に。

冷静に考えれば、梶秋彦という人間自体はキヅナツキ先生が作りだした人物であり、彼の台詞は全てキヅナツキ先生が書いた言葉である。つまり、彼が吐いた数々の台詞はキヅナツキ先生が言わせたものだし、私が嫌悪感と好意を向けるべきはキヅナツキ先生である。

アニメが終わった時、秋彦さんと春樹さんがもっと知りたくて漫画を買うことも考えたのだけれど、やめた。
それは多分心のどこかで漫画を買ってしまうと、この4人が先生の創った箱庭の中の住人であるということを自覚してしまうのが嫌だったんだなと今更思った。
今の私は梶秋彦という人間がどうしても許容できなくなって、創作物であるということに救いを求めているのだけれど。


前述した理由もそうなのだけれど、それ以上に私は『ギヴン』というアニメ作品に執着していた。どうしてもこの作品はアニメで見たかった。この役者が、このチームが紡ぐ、緻密で繊細で触れたら壊れそうな、そしてだれかを簡単に深く傷つけるほどの力を持ったこの作品を、このチームが創ったアニメで見たかった。


そもそも、放送開始当時の私は少し気になっていたキャストがノイタミナ枠でバンドものをやる、程度の認識しかなかったし、そこへの期待もあまり大きくはなかった。この作品がBLであるという認識すらなかった。金髪で短髪のごついドラマーなんて確実に私の好みではなかったし、事前に公開されていたサンプルもそこまで刺さらなかった。それでも私が1話を見たのはバンドものであるいう事への少しの期待と、ノイタミナ枠への無条件の信頼故だった。

1話を見た時。
キャストの芝居が想像以上に好みで、少しワクワクした。でもそれ以上に私の心を奪ったのは、3人のセッションのシーンだった。どこまでもリアリティのある音、手元まで拘って作られた映像、そして音の余韻が残ったまま写し出される真っ黒のアイキャッチ。全てのセンスの良さに鳥肌が止まらなかった。この作品で最もすごいのはクリエイターだと思った。ずぶの素人な単なるオタクである自分がそんなことを思ったのは後にも先にもこの作品だけである。

見ているうちにどんどん作品にのめり込んでいた。キャラクターの声の生っぽさと、映像のアニメらしさ、ちょっとしたコメディシーンのセンスの良さ、全てが見れば見る程楽しかった。

そして1話の衝撃を上塗りしてきたのが9話のライブシーンだった。
イントロが流れた瞬間に何かが始まるのだと分かった。ぶわっと鳥肌が立った。そして、真冬くんが口を開いた瞬間、訳も解らず涙が零れた。技術は拙いのかもしれない。でもステージに立つ彼は紛れもない『天才』だった。


そしてそんな衝撃的な体験は映画館であっさりと塗り替えられる事になった。
夜が明けるはイントロがなく、真冬くんの歌声から曲が始まる。そしてその歌声は冬のはなしの歌い出しとは対照的にとても力強いもので、私はまた彼の第一声から泣いていた。普段の声の線の細さと透明感に、歌になると突然乗っかる力強さと生命力。そして何より、彼は天才なのであるという圧倒的な説得力。誰がすごいのか、何がすごいのか、素人の私にはよく分からなかった。
でも、紛れもなくあのステージに立つ『佐藤真冬』は天才だった。


どこにどう感謝を伝えるのが正解なのか分からなくて、映画館では泣いてしまってろくに見ていなかったスタッフクレジットを家に帰って隈なく読んだ。舞台のパンフレットじゃないからこの名前見たことある…とはならなかったけれど、胸がいっぱいになった気がした。

アニメギヴンに関わった全てのスタッフさんに御礼がしたい気持ちで一杯です。最後まで緻密で丁寧で愛の感じられる素敵な作品をありがとうございました。できれば続編が見たいです。劇場版円盤買います。バイトし始めたらテレビアニメ円盤も買います。なので、何卒宜しくお願いします。
私はあなた達が作るアニメがどうしても好きです。

 

今、ひとクールで何十作品ものテレビアニメが流れ、年間で何十本もの劇場版アニメが公開されている。大きな大きな流れの中で目につくのは、ソシャゲのアニメ化やジャンプ作品のアニメ化ばかりで、きっとギヴンはその流れに流されていってしまう作品かもしれない。ぱっと見派手な作品ではないから。
自分だって、最初から期待していた訳じゃなかった。なにかひとつ違っていたら触れていない作品だったかもしれない。
でも今私はこの作品に出会えて、この作品を知って、こんなにもこの作品に突き動かされている。

この作品が私のバイブルだと言える作品がある人がずっと羨ましかった。そんな作品に出会ってみたいとずっと思っていた。
今の私が好きなアニメ作品を聞かれたら確実にこの作品を挙げると思う。そして、いつかこの作品が私のバイブルなのだという日が来るのかな。

沢山の人が作り上げた、繊細で丁寧で触れると壊れてしまいそうな綺麗で美しいこの作品を、私は痛みも傷も全部抱え込んだまま、後生大事に抱えて生きていきたい。


映画ギヴン公開おめでとうございます。
どうか末永く、この作品が沢山の人たちに愛されますように。





追記 8.25

ギヴン原作を勢いで全巻買いました〜!!

これからは漫画でギヴンと共に…